⑩ 絶対禁止!! 成約時代の言語は ➡ 新約の「統一原理」の言語基準で読んでは いけない ➡ これを犯して 言語混乱に陥っている!!
メシヤ宣布以降・・・言語混乱に陥っている
原理講論に記されていた 「アブラハムによるイエスの典型路程」を 御言葉で確認できたのは 10年くらい前でした これ以降 「アブラハムによるイスの典型路程」に関する御言葉は 50くらい PCフォルダーに収められています
その一つが 天聖経に詳細に語られています
(詳細は「アブラハムによるイエスの典型路程」の〔C〕)
これを読んだ以降 雷に打たれたように わたしは変わりました メシヤ観が変わり 神観も変わり 原理観も変わり 罪観も変わり 救済観も変わり 愛観も変わり 基元節も変わり 聖和も変わり ・・・ 曖昧さが晴れて 変わりました
(ただ 残念なのは 「アブラハムによるイエスの典型路程」を題材にした 他のブログ記事を 目にしないことです これまでも 誰かの口からも この内容を 聞いたことがありません)
しかし 「アブラハムによるイエスの典型路程」を知って以降 これでこそ 文先生とお母様が わたしの真の父母となり メシヤであるとなったのです
文先生が〔C〕で 「あなた方はそうすることができますか」と問うていますね これに躊躇しているわたしがいて できないと言っている私がいるのです
それでも わたしがお父様の足元にすがりつくと お父様が「自分の重荷を下ろしなさい」と言われ わたしを受け入れてくださるのです
文先生がお母様に敢行された「アブラハムによるイエスの典型路程」を知り 私は喜びと悲しみを持つようになりました
献身して30年間 何も知らなかった衝撃は 毎日毎日 心情にこびり付いた垢を取るため ブラッシングを受けました 内的な血と内的な涙が流れ続けました それは 今も変わりません
ところが その衝撃は そればかりではなかったのです
「アブラハムによるイエスの典型路程」よりも もっともっと 衝撃を受ける真実が 2005年に 御言葉で語られていたのです
これを知ったのが 5年ほど前です
文先生が16歳の時 まだ何も知らなかった文先生に 神様が一方的に与えられた 大事件です
この大事件に関しては ➡ (「文先生 16歳の時の 堕落に関する御言葉 - 新「平和の主人 血統の主人」 または このブログ「カテゴリー・タグ」の「文師の堕落」をご覧ください)
あなたは これらの記事で取りあげている御言葉に耐えられますか
成約時代に与えられた天聖経が 第二の聖書であると 文先生は語られています
とするなら 1972年に語られた「堕落原理」とは 「文先生が16歳の時の堕落」を言っていると 判断するに至ったのです
『堕落原理』とは 統一原理の堕落論のことではありません これは 再臨時代の救援摂理で起こったことです
黙示録の第二の死になります
ですから 「堕落原理」は第二の堕落論とも言えるのです 内容がまったく違います
再臨時代の御言葉とイエス様までの統一原理 これらは矛盾するものではなく 同じ言語であっても 全く別時代の別次元の御言葉です
ところが 私たちは 新旧をごちゃまぜにして まだらにして 読んで来たのです その為 再臨時代の摂理が分からなくなってしまったのです
あくまでも 再臨時代の御言葉にある「アダム」「エバ」「人類始祖」とは 文先生とお母様であり 「堕落」とは 再臨時代の堕落原理によって起こった堕落のことを言っているのです
決して 六千年前の人物でも 堕落でもありません
もし あなたが 統一原理を暗記するほどまでに学んでいて
天聖経の「アダム」と「エバ」の名を 統一原理の人物と同一視して読んでしまったら どうなるでしょうか
あなたは 必ずや 統一原理が光を失い 天聖経も光を失ってしまうことに 気付くでしょう
反対に あなたが 統一原理を暗記するほど学んでいなければ
どの御言葉も ぶつ切りにして 短い文脈でしか 理解できなくなります
その為 御言葉の総観は程遠くなり
この姿こそ いまの 家庭連合のほとんどの信徒たちの姿です
摂理音痴に陥ります
そして 統一原理を条件的に学び 条件的に訓読をします
意味も知らずに 読経しているのです
この姿を何に譬えることができるでしょうか 新婦になるはずだったエバが やもめのようになってしまったのです
原理講論に・・・
「旧約に対して新約が対立的であるように、新約に対して成約も対立的現れる」という内容が記されています
この対立関係は イエス様までの原理講論と 特に、1992年以降の成約時代の経典となった天聖経の関係でもあるのです
つまり 統一原理にある摂理的言語と 同じ定義性で 天聖経を読んだ場合 ここに起こる矛盾と対立を言っているのです
そうなると 統一原理と天聖経の真理性が どちらも崩壊するのです
何故なら 統一原理の言語と 天聖経の言語は 同文字同音の言語であっても 定義性が 全く違うからです
旧約の契約書と新約の契約書は同じ言語であっても 意味するところが違うのです
新約の契約書と成約の契約書もそうです 同じ言語であっても 意味するところが違うのです
成約の天聖経の言語は 新約基準の統一原理に対して 同音異義語になっています わかりますか
だから 天聖経を 意味が伝わりにくい音読で読み上げているにもかかわらず 正しくその意味を知って読む必要がある為 「教え」という意味を持つ「訓」の字を用いて 文先生はこれを「訓読」と言っているのです
しかし 現実は 言語を新旧チャンポンにして 同一視しているため 意味不明になって 言語混乱が起こり 成約時代の御言葉が理解できなくなっているのです
ただ 音読 つまり 読経している状態に陥っているのです
繰り返しますが
成約の天聖経にある「アダム」「人類始祖」「堕落」「再臨」という言語は 新約基準の統一原理にもあります しかし 言語の定義性が違っているのです
これを同一定義で読んでいるのです
そうすれば 必ず 天聖経と統一原理の関係が 矛盾し対立的になります
不幸にも ほとんどの信徒は 統一原理を暗記するほどまで理解していない為 双方の矛盾に気づかず ただ 通り過ぎているか それとも 天聖経は 統一原理を上書きしているとして 読んでいるのです この上書きが何を意味しているかも知らずにです まさに 御言葉の自殺行為です
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