新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

顕進様、国進様、亨進様へ お父様の真実をお捧げ致します (お父様の価値を貶めるものでは決してありません)

顕進様、国進様、亨進様へ お父様の真実をお捧げ致します (お父様の価値を貶めるものでは決してありません)


(777の記事はこれまで誰も想定していなかったこと、衝撃的な内容が御言葉から取り上げられているので、容易に理解できるものではありません。)



成約時代は、ここで語られている「堕落原理」から出発しなければならないと思われます。



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🔶 【1972年の御言葉(東京教会)】 
  堕落論を聞いて献身した食口たちに対して・・・
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この御言葉は韓国では語られていないものと思います。お父様が罪を引き受けられたという、日本で初めて語られた第二の福音の御言葉になると思います。


エデンの園でアダムとエバが堕落したことは、キリスト教徒でなくても世界的に知られているはずです。にもかかわらず、(※1)堕落したアダム・エバ、あるいは我々の先祖が堕落したことは見たこともないし、聞いたこともない。」と文先生は語っているのです。(お父様の御言葉を聞きながら、ピンボケを感じたことが度々あったのは、アダムの名を六千年前のアダムとして聞いていた為でした)


この御言葉も、文先生がアダムの名を借りてご自身を語られていた為、まさか、再臨主であり、アダムであった文先生がご自身の堕落のことを語っていたとは誰一人思わなかったのです。(もしこれの御言葉を当時の兄弟たちが文先生の堕落のことだったと知ったなら、彼らに激震が走ったことでしょう)


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🔶 文先生の堕落は(※4)の『堕落原理(事実蕩減)』によるものだった


  『堕落原理』とは・・・(※3)「神様の原理の基準には立っているんだけれど、神様はこれを干渉することができない」という堕落のこと
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六千年前のアダムとエバの堕落はサタンを中心とした『堕落論』であり、文先生の堕落は復帰の為の『堕落原理』であったということ。これが(※3)です。
少し難しいですが、(※2)「サタンが主管する非原理世界」、それ以降にも詳細に語られていますから、お読みください。


そして、文先生の「堕落原理」によって起こったことが(※5)です。これこそが原理講論に預示されていた「アブラハムによるイエスの典型路程」に合致すると思われます。これ以外には見当たりません。
(お父様は東京教会で決して仮想の話をしているのではありません。最後まで読めばそれが分かります。また、これに関してさらに現実的な御言葉もあります。)



お母様は、ご自身に起こったこの堕落に対して世界基準の蕩減に耐え切れず、最終的にお父様に反抗してしまったのです。そして、お父様を自死に至らせたのです。この反抗を預示していたのが(※6)です。
(しかし、お母様の最終的な反抗は、摂理的奥義としてお父様が操縦士となって用意されていたものだったのです。それが、エバによってアダムが再創造されるという奥義(原理的手続き)です。ですから、お母様がお父様を聖和に至らせた、黙示録にはお母様を大淫婦であると記していたとしても、お母様はサタンから逃れ、さらに、家庭連合が助けたことまでも黙示録【12:13-16】には記していたのです。)

メシヤと我々 

  1972年4月23日 日本 東京教会  


 (※1)堕落したアダム・エバ、あるいは我々の先祖が堕落したことは見たこともないし、聞いたこともない。しかし堕落した結果の世界に生まれている。


・・・・・・


(※2)サタンが主管する非原理世界


 神様を中心として考えてみた場合に、サタンというものが問題である。サタンは何を中心として今まで、問題とするか。「神様はこういうような原則において万物をつくったんだから、その原則の法において、これを主管するのが原則である」。その原則がある。その原則をサタンが握ったとするならば、いつでも永遠に讒訴することができる。その原則に合わなかった場合にはいつでも讒訴することができる。だから統一教会でいうのは、原理を中心として非原理という問題が生まれてきます。それは堕落の世界です。それを原理の神様が願ったか? 願わなくても原理の原則を中心として、非原理的な中心者が生まれて原理軌道によって讒訴してくるのです。


 こういう問題がもしも世の中に起こったならば神様どうするか? 非原理を否定するまでには、原理の権限というものは生まれてきません。それを否定する時まで。


否定は誰がするか? 


神様がするんじゃない。神様はすることができない。非原理によって引きずられている人間が、否定する要件を満たさなければならない。だから非原理の者は、神様に従うべき者ではありません。神様の干渉に立っている者ではありません。

しかし、原理の姿をとっていくんだから、(※3)神様の原理の基準には立っているんだけれど、神様はこれを干渉することができない。そういう問題が起こったとするならば、これは神様もどうにもならない。非原理の相対基準に立っている人間だけで問題を解決しなければ、問題解決の要点にはならない。こういうような基準に引っかかったならば、神様もどうにもならない。これが歴史の恨みの基準になっているのです。


 それは何を中心としてそうなったか? あんたたちが堕落論で習ったと同じように、(※4)堕落原理というものは、本来はないんだよ。堕落原理というものがあるかっていうんだね。非原理というような基準を中心として堕落原理は……。それは堕落せずに、その道をたどっていく以外にない原理であるというんだね。


 もしも、それ以外の問題で堕落したならば、堕落原理という問題にはならない。それは直ちに復帰される。もしも手が切られてしまったら、これはもう一つなくてもいい。足がなくてもいい。根本問題がいかれてしまった。それが愛の問題である。


(※5)(以下全て)

 本当はお姫様であるべき、その尊い者がその国で一番の強盗の親分に引き連れられて、そして愛の関係を結んでしまった。そういう場合どうするか。王様は、「この野郎、二人共首を切ってしまえ!」。首を切ってしまったならば永遠に子供というものが生まれてこないという場合にはどうする。そういう結果になってしまった。それは、原理としてはそういう方法を取ることは絶対できないにもかかわらず、引っかかってしまった。そういう場合にはどうする?


 それはお姫様が相対者も何も決めていない立場だったら、それはともかく許しようもある。男に対して女が引き連れられていったのだから、原理原則である。しかし、そこにいいなずけの男が決まっていたという場合には、もしもそういうふうになった場合にはどうするか? これは許す道がない。そうかといって、切ってしまったらそれで終わりだ。種がなくなってしまう。人間の氏族がなくなってしまう。なくなってしまうのは原理じゃない。人間は永遠に存在しなくてはならないので切ってしまうことはできない。そういう立場に立ったその王様は、いかに惨めであるか。そういうようになったならば、殺してしまえば簡単である。日本国民にそういう問題があったならば、国法において、処分して片付けてしまえばいい。その人がいなくても、人はいくらでもいるからであって、もしもたったそれっきりの者だったらどうするか。大変なことになる。


 そういう問題以外において、人間が堕落したとするならば神様は六〇〇〇年もいらないよ。六〇〇〇年、六日もいらないよ。そういう問題に引っかかったんだから、サタンが犯したその男の奴は不平ばかり言っているんだから、自分も間違いない罪人だ。この女も間違いない罪人である。その罪を犯したんだから罪を罰せられるのは原則である。宇宙の原則である。

(※6)その罰せられることにおいて反抗する者があったならば、それは王様としては、再び関係を持って考える相対者には絶対できない。罰せられて当然である。打たれても感謝しなければならない。そういうような道以外に、許される道はあり得ない。不平を言ったり、反抗したり、そういう立場に立ったとするならば、それは許すというような道は閉ざされてしまう。


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