【言語の定義性が違っている】 新約までを解いた原理講論の言語と、成約時代の言語(御言葉)は、たとえ同じ発音の言語であっても、その定義性が違っている
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重要
➡ 旧約時代の言語、新約時代の言語、成約時代の言語は、たとえ同じ発音の言語であっても、その「定義性」が違う
➡ 「定義性」について ➡ 下記の御言葉をお読みください
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① ➡ 旧約、新約、成約という時代時代によって言語の定義性が違っている
➡ 「神の概念」「堕落の概念」「終末の概念」「メシヤの概念」「復活の概念」「救済の概念」「選民の概念」等々が違っている
➡ この観点は、成約時代の御言葉を正しく理解するうえで重要な観点です。
➁ 具体的には ➡ 新約までを解いた原理講論の言語と、成約時代を語られた御言葉の言語は、たとえ同じ発音の言語であっても、その定義性が違っているということです。
例えば、原理講論で用いられている「アダム」「人類始祖」「堕落」・・・等々の言語と、御言葉の「アダム」「人類始祖」「堕落」・・・等々の言語とは定義性が違っているということです。
③ 原理講論にある「言語統一」の本質はどこにあるのでしょうか。
それは、イエス様が語られた言葉にあります。イエス様が「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである
(マタイ5/17-20)」と語られました。この「成就する」という言葉こそ、神様の愛と原理のみに一致することとなる言語統一の本質なのです。
④ いま、成約時代を迎えることによって「言語統一」ができる時代圏に入ってきました。それが下記の二つの御言葉です。
⑤ 韓国語による「言語統一」に関しては、後日検証します。
結論だけ記しておきます。文先生が言われた1995年に言われた「韓国語」とは、外的な主権国家である韓国の韓国語のことではなく、堕落によって人類が失った神様の本来の言語を韓国語と言っています。
御言葉(1975)
「神様の摂理から見た 南北統一」(書籍)
科学世界は公式発達の世界ですが、その公式というものは単位を通して形成されるのです。その単位というものは変わるものですか、変わらないものですか。総合的な内容を含んだものですか、単一的な内容を含んだものですか。どのようなものですか。
定義という言葉は総合性ですか、単一性ですか。(単一性です)。(言語の定義は)単一性だというのです。(八一―一八八)
(「(言語の定義は)単一性だ」とは ➡ 旧約時代の言語と新約時代の言語と成約時代の言語が、たとえ同じ発音の言語であっても、その時代時代の定義性は単一性であるということです。)
(➁で取りあげたように「新約までを解いた原理講論の言語と、成約時代を語られた御言葉の言語は、たとえ同じ発音の言語であっても、言語の定義性が違っているということです。)
御言葉(1971)
天聖経 真の父母 一 二)
それゆえ、悪い人だといって嫌ったら真ではありません。悪い人も最高に好み、良い人も最高に好むべきなのです。これが真なる人の定義です。真なる人とは、悪い人もいちばん好み、良い人もいちばん好む人です。そのような者がいれば、その方が真なる方です。ここに異議がありますか? ないでしょう?(はい)。(三九・三〇一)
(旧約時代は「敵を憎む」ことを善しとしてきました。
新約時代は敵の為に信徒が犠牲になることを教えてきました。
成約時代はサタンの為に父母が犠牲になることを教えてきました。)