新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

コメント(質問)のやりとり  究極のアベル ヤコブとなられた文先生

実際のコメントに対して若干編集しています。

コメント(質問)のやりとり

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カイン氏族としてのキリスト教を愛していくことも(これは決して外的な摂理ではなく、最も本質的で内的な摂理であったと思います)同時並行的になして行く必要があるとお父様は考えておられたように思うのですが、どうお考えですか?

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777空の返信

どうしても私のコメントが断定的になりがちですので、それに注意してお読みください。


言わんとされることはよく分かるつもりです。私もそう思う所もあります。そのとおりです。

しかし、それでもあえて言えば、歴史の中心出発者は文先生であり(https://sin-heiwanosyujin-kettounosyujin.muragon.com/entry/264.html)、文先生に最も影響を与えたのがお母様であり、次に子女様たちであり、次に幹部たちです。(それでも文先生は末端の私をも訪ねて来られるお方です。)


ところが、文先生は愛する身近なところを最も犠牲にし、遠くを愛されましたから、身近にいる者は信仰を全うすることが困難になりやすいものです。そういう意味では、愛された弟子たち、さらに、末端の信徒たちの責任が大きいのでしょうね。


つまり、末端の信徒たちが中心家庭の防壁にならなけらばならなかった。それが真の父母宣布時代の訪韓修だったと思います。


それを横的に言えば、アベルであった中心家庭を守る為にカインである統一教会の幹部たちと信徒たちが一つのアベル団となって、カインであったキリスト教を復帰しなければならなかったのだと思います。アベルとカインは数珠的に繋がった横的な相対関係ですから同一的存在ですので、そのとおりです。

つまり、カインアベルは相対関係ですから、カインはベルに石を投げてはならないという前に、アベルはカインを自然屈服させなければならなかったのです。言葉では簡単ですが、これを成す為にはアベルがすべてを失っても、殺されても弁明一つできない立場でカインを愛することができなければなりません。これができなかったのです。(言葉では簡単ですね。行うは難し!)


究極的アベル=文先生

ですから、アベルになろうとすればヤコブの道、イエス様の道しかないのですね。その立場に立っていたのが統一教会の幹部たち、信徒たちだったのです。ですから、文先生は誰よりも先立って手本となってヤコブとなり、お母様に全ての会計権と人事権までも1981年に譲られたのですね(https://yohane-no-mokusiroku.muragon.com/entry/507.html)。ですから、幹部たちはお金と位置の欲しさにお母様に甘い言葉をもって侍ったのです。

しかし、自ら全てを失った文先生はこれを何一つ誇っても恨んでもいないのです。文先生にとってこれは一つの通過点であっただけで、ここから、興進様の犠牲があり、ダンベリー刑務所収監があり、さらに、1992年に向かって、イエス様の立場、再びメシヤの位置に戻られることの始まりでもあったのです。


以下が質問の答えです。

ただ、これを観点を変えて、縦的な原因と結果という因果関係からみれば、内的原因が外的結果になったということ言いたいのです。摂理の原因の究極的出発者となっていた文先生にとって最終責任を取られたのが究極的アベルの立場であったのであり、それがイエス様と同じ道の聖和だったのですね。

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