新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

【1974年の御言葉】 文先生の堕落は ➡➡ 文先生の「責任下」で遂行された

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統一教会、家庭連合の過ちは ➡ 文先生の神格化にあった
  (幹部たちは自分たちの不信を隠す為、文先生の神格化を隠れ蓑としてきた)
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文先生は神様の全権大使・真の息子


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目を覚ましましょう ➡ 文先生とお母様の真実がここにある
  (無知と無責任の産物であった文先生の神格化を捨てましょう)
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あなたは、下記の四つの記事が理解できていますか??

① 文先生とお母様は「堕落から始めなければならなかった

➁ 文先生の堕落は「利他的な堕落」であった

③ 文先生はご自身の堕落により「原罪を導入した

④ 文先生の摂理的勝利は「堕落した贈り物」であった


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私は文先生が聖和された以降、文先生が本当にメシヤであったのか、また、その御言葉に誤謬がないのかを知りたくなり、日本語に翻訳されている御言葉を一度でもいいから耽読し、御言葉の誤謬と真実を探ってみようと思い立ちました。

その結果が、この四つの記事です。


私たちは、文先生を神格化してきた呪縛から自分を解放しなければなりません。そして、原理基準と八定式基準をもって御言葉を耽読しなければなりません。

そうすれば、御言葉の誤謬から解放され、御言葉の一貫性が分かるはずです。そうなれば、文先生は私たちが想像した以上のお方であったこと、神様の全権大使・真の息子であり、筆舌ではあらわせないお方であったということが分かるはずです。



上の四つの記事が理解できたら、下記の御言葉も理解できるはずです。

『文先生』=「アダム」「人類始祖」「人間」「男性」「自分」「私(たち)」

下記の【1974年の御言葉】もそうですが、文先生はご自身を「アダム」「人類始祖」「人間」「男性」「自分」「私(たち)」として御言葉を語られています。これによって御言葉がはじめて原理基準になります。いろんな御言葉からあなた自身でじっくりとお試しください。目から鱗になるはずです。


誤謬による不信

当然と言えば当然です。この基準をもって御言葉を読まなければ御言葉全体が誤謬となります。そして、その誤謬が解けなくなって不信に陥り、いずれ、文先生から遠ざかるようになるのは自明の理なのです。それが1992年の真の父母宣布以降の不信が決定的になった時代からです。


文先生ご自身が堕落した立場

あくまでも、文先生ご自身が堕落した立場に立っているという大前提で御言葉を語られていたことを知らなければなりません。

ですから、文先生の神格化から自分を解放して御言葉に向き合わなければ、命をかけたはずの御言葉が誤謬となってあなたを蝕みます。そして、最後は文先生から遠ざかるようになります。事実、そのようなお方たちがたくさんいらっしゃいます。


下記の御言葉は1974年のものです。

1950年代から、この1974年の時代も、文先生ご自身が堕落した立場で語られていたのです。しかし、統一教会の幹部たちは、特に日本の信徒たちに対して、(自分の不信を隠す為と献金を集める為に、)今も文先生を神格化して信徒たちを呪縛下においているのです。天の審判はコロナのパンデミックだけではありません。まだまだ、新たなものが続くと思われます。


原理を否定し、人間主義に陥った家庭連合

その為、私たちは文先生が蕩減的必然性から堕落した立場に立たれて御言葉を語られたことを知りません。無知の為、ただただ、原理基準を無視して文字の奴隷となって、「アダム」「人類始祖」の言葉を文字如くしか読むことができなくなっているのです。

その他に、「人間」「男性」「自分」「私(たち)」という言葉もそうです。これらの言葉が文先生であるにもかかわらず、文先生として読めなくなっているのです(もちろん、二重的意味の場合もあります)。

その為、いま、お母様を中心とした家庭連合では命の根源であった原理を否定します。神主義(文先生主義)から脱線して人間主義に落ちり、原理に変更を加えようとしているはずです。


御言葉が虫食い状態になっている

韓国の1950年代の初代教会時代から今に至っても、文先生の愛に酔っていた為、大幹部たちは不信した自覚がなく、自覚なしに本心を隠し自分の不信の隠れ蓑として文先生を持ち上げ神格化してきたのです。(このようなことは、この世でもよくあることです)

幹部の全てが嘘を嘘と知ってか知らずか、方便的に嘘をついている。ある意味で確信犯です。2000年以降辺りから、彼らは「嘘の責任はすべて文先生にある」と言って嘯いているのです。(幹部たちの大半は、霊界行きになってしまったのですから完全に手遅れなのでしょう)

その為、上の四つの記事の御言葉に対しても、下記の御言葉の文先生の堕落に対しても、文脈的に不自然であっても、自分の名誉の為、献金の為、原理を無視して神格化を保持し、この堕落を六千年前のアダムの堕落として受け止めてきたのです。(よくよく読めば、文脈的に不自然であることが容易に分かるはずだったのですが・・・・)



下記の御言葉の「堕落」を原理講論と対比してみましょう。

原理講論の堕落は ➡ 六千年前のアダムが「責任」の不遂行で堕落した


しかし・・・、


下記の文先生の堕落は ➡ 文先生の「責任下」で遂行された


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「下記の文先生の堕落は ➡ 文先生の「責任下」で遂行された」ということは、上の四つの記事と完全に同期しています。



【1974年の御言葉】

訓教経(下) (2000年書籍)


26.『み旨の完成と私たちの使命』 

   ◆神様の救援摂理  一九七四年十二月三十一日  韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第七十四巻』


 しかし、本来堕落というものは、神様が責任を負った立場で行われたことではなく、人間(文先生)の責任下で行われたことであるために、神様は責任を負うことはできないのです。


その国の国民が間違ったことを、大統領が直接責任を負えないのと同じです。自分(文先生ご自身)が犯した罪は、自分が清算する条件をもたなければなりません。

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