何故、「御言葉を解く鍵」が必要なのか?? (文先生の路程を解明する為)
ーーーーーーーーーーーーー
何故、「御言葉を解く鍵」が 必要となったのか?
その答えが・・(2)
ーーーーーーーーーーーーー
(1)御言葉を読んで おそらく 誰もが 感じること・・・
何度読んでも 分かったようで分からない・・・・。
十行くらいの文字数なら、理解できるところがある・・・・。
しかし、歯車がカチッとかみ合うように、御言葉全体がしっくりこない。
(2)しっくりこない 御言葉に関して 三つの問題
第一 に、統一原理の後編に登場するアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスという中心人物たちの摂理路程は理路整然と解かれている。
ところが、再臨主であられる文先生の 摂理路程が まったく 理路整然としていない。
第二 に、文先生は膨大なみ言選集を残された。しかし、御言葉を字義通り読むと「意味不明」なことが多い。
第三 に、特に堕落に関して、御言葉を字義通り読むと 統一原理と矛盾することがあまりにも多い。
その為、統一原理を真剣に学んだ者ほど信仰を失い、多くの古い信徒たちがリタイヤして行ったのです。
ーーーーーーーーーーーーー
上の 第一 に関して 補充することがある
ーーーーーーーーーーーーー
この第一の問題は、今後、私が取り組まなければならない問題としています。何故かと言いますと、その理由が次の御言葉にあります。
御言葉〔A〕
原理講論 後編 第二章 第一節 (一)
モーセが、自分のような預言者一人を、神が立てられるであろうと言ったのは(使徒三・22)、モーセと同じ立場で、モーセ路程を見本として、世界的カナン復帰の摂理路程を歩まなければならないイエスを表示した言葉である。
そして、ヨハネ福音書五章19節に、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」と記録されているのは、とりもなおさず、イエスは、神が、既にモーセを立てて見せてくださった表示路程を、そのまま歩まれているということを言われたのである。
(※)ゆえにモーセは、次に来られるイエスの模擬者となるのである(使徒三・22)。
この原理講論に関してもう少し…
ーーーーーーーーーーーーー
文先生の摂理路程を解明すること・・・
解明の ヒント
イエス様はわずか三年で 再臨を約束 して 十字架で殺害された
イエスの再臨・・・文先生
原理講論の 「モーセ路程」
ーーーーーーーーーーーーー
イエス様の公生涯は御言葉〔D〕から分かるように、民族基準の路程であった。
ところが、原理講論のイエス様の路程は「世界的カナン復帰路程」と記している。
ということは、既に他界したイエス様が世界基準とならなければならないことになる。
その為に、イエス様は再臨しなければならかった。その再臨主が文先生である。
この為、文先生は統一教会を国家基準を超えて世界基準に引き上げなければならなかった。
その為にあったのが、1952年から始まった文先生の「40年サタン分立路程」であった。
その「40年サタン分立路程」の途上において語られたのが下記の御言葉〔B〕です。
御言葉〔B〕
真の御父母様の生涯路程3 第五節 四
六〇年度に「父母の日」が設定される時までの先生の説教集(文鮮明先生御言葉選集第一巻第八集)を見ると、すべてイエス様を中心として話しているでしょう。先生を中心としては話さなかったのです。復帰路程において、イエス様が果たせなかったことを解怨してあげなければならないのです。
イエス様を十字架につけた、サタンの立ち会いのもとで、「私がこういう条件を提示したので、お前はもう後退しなければならないだろう」と言って、「そのとおりです」と言わせることのできる証を立てていく歩みを、イエス様に代わってしなければならないのです。
そうでなければ、神様の摂理を正しくとらえて進むことができません。そのような激しい闘争の歴史を、見極めて行かなければならないのです。そのことを誰が知っているのかというのです。
上の〔B〕に「すべてイエス様を中心として話しているでしょう。先生を中心としては話さなかったのです。」とあるように、文先生はご自身に再臨されていたイエス様の名をもって御言葉を語れれていたことは、特に、1950年代の御言葉を読めば誰にでも分かる。
ーーーーーーーーーーーーー
イエス様と文先生の 二人三脚
1952年から始まった 「40年サタン分立路程」
ーーーーーーーーーーーーー
文先生の40年路程は、民族的基準であったイエス様を世界基準まで引き上げる路程となった。
さらに、御言葉〔A〕に『(※)ゆえにモーセは、次に来られるイエスの模擬者となる』と記されているように、文先生の40年路程は複雑な「モーセ路程」を手本として歩まれたことになる。そのように私は見ています。いずれ、記事にするときが来ると思います。
この為、文先生は御言葉〔C〕で次のように語られたのです。
御言葉〔C〕
赤・天聖経 第五篇 第一章 第四節
10 「統一原理」は、私の生涯の記録でもあります。
それは、私自身の生活経験です。この「統一原理」は私の中にあり、私は「統一原理」の中にいます。
多くの 人々は、私がただ真理の発表者であり、その伝達者にすぎないと言いますが、私は真理のとおりに生きており、それを具現しました。
したがって、人々が私と私の行動を理解する唯一の方法は、「統一原理」に通じることのみです。「統一原理」を知って研究することによってのみ、私を理解することができます。原理を研究すればするほど、私をさらによく理解できるというのです。
御言葉〔D〕
「完全復帰」一九六六年一二月一八日(日)前本部教会
皆さんが歩んでいる路程は、昔イエス様が公生涯路程において民族を代身して闘った、そのときの路程とは違うのです。時代と環境が異なっているのです。その時は民族的な時代だったのですが、今は世界的な時代です。また今は自由民主主義の時代ですから、どんな所でも言論と結社の自由があります。理念を主張することができる時代圏内に入ったのです。イエス様が生きた時代のように、一言でも誤れば殺されるそんな時代ではありません。