《⑤》ヤコブ家庭のレアとラケルの失敗→カインとアベルの分裂→エリヤの失敗→エリサベツとマリヤの失敗→洗礼ヨハネの失敗→イエスが殺害された→再臨時代も同様のことが世界的に起こる
本日は再び『蕩減復帰の峠を越えましょう』に戻ります。
前回の《④》その1 のつづき・・・
《 『蕩減復帰の峠を越えましょう』 》
(女性修練会) 1993.12.20 韓国・済州研修院
この御言葉を読むにあたって
(黒文字・紫文字は御言葉です。御言葉は省略していません)
(赤文字)は注釈として私が入れた言葉です。
(茶文字)も注釈です。
《 》内は、お父様が【 】で語ろうとされたことに対して、予め語られた原理的な要約になり、この【 】内は、統一教会の摂理的実態が語られています。
つまり、お父様は《 》を語ることが目的ではなく、【 】を語ることが目的であったことが分かります。
しかし、抽象度が強いために【 】の真意を理解した者は皆無だったと思います。
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本日は《⑤》です。
ここの《⑤》は次の《⑥》の為の前座とも言える御言葉です。
《 ⑤ ー1 》 お父様が語られた原理的要約
《 エリヤの使命と洗礼ヨハネ
北朝と南朝が一つになるための、イスラエルとユダヤの聖書の中の絡み合いの戦いなのです。それを成すために、中間の調和のために送ったのがエリヤです。エリヤは、北朝のバアルと偶像アシュラを崇拝する者たちを集めて、その祭司たちをみな動員して、南のほうのユダ支派の祭司と共に、「生きた神がいかなるものかを試して、それを証しした方向に南北を行かせよう」と提唱してやったのです。
北方の十支派の祭司、偶像崇拝、サタン的な祭司たちを八五〇名が、みな祭壇を作って燔祭をささげ、「そこに水をかけて祈った場合に、天から火が降りてみな焼いてしまうような実証をしよう」と準備して、まず、八五〇名の北朝の十支派のカイン的な祭司たちは、いくら祈ってもびくともしないのです。それで、エリヤが一人で祈ってみると、天から火が降りてきて、祭壇とともに、祭物とともに祭司たち八五〇名をみなさーっと焼いてしまったのです。
そうなると大変です。北朝の人々は自分たちの崇拝した祭司たちがみな(エリヤのせいで)死んだのだから、「このエリヤ!」と(怒り出したのです)。(エリヤと)約束したこともさておいて、「自分たちの信奉する祭司たちを殺してしまった」と(言って怒り)、(北朝の人々はエリヤを)みな殺そうとしてきたので、エリヤは逃げて、山へ行って祈ったのです。
(エリヤは)「神様、あなたの命令によって、一つとなるように思ったのに、一つとなるどころか、みな私を殺そうとするのです。こういうふうになったのだから、私の生命を取ってください」と祈ったのです。その時、神様が言うのには、「いまだに、バアルに屈伏していない七〇〇〇人が残っている」(ので問題である)と。その(北朝の)七〇〇〇人(と南朝)を中心として(カインアベルが)一つになる時までは、復帰はできません。カイン・アベルの二人を立たせないと、神の国に帰ることができないのです。
そういうような言葉を残して、エリヤは昇天して使命を果たせなかったのだから、それを再びイエス様が、国家次元で(カインアベルの統一を)なさなければならないのです。国家次元でイエス様が来られる時、イエス様は国家の王様として来られるのだから、その前に起こる支派的民族的な争いは(レアとラケルが残した禍根であり)大変なものです。それを平定して、エリヤの統一の理論(=レアとラケルの一体化とカインアベルの一体化)を再びなさなければならないので、エリヤの再臨という概念が再び生まれてくるのです。それで、エリヤが九〇〇年前に火の車に乗って昇天していったと同じような姿で、再び降臨すると思っている旧約聖書を徹底的に信じていたのです。
分かりますか? (はい)
エリヤが来るといっても、火の車に乗って行ったので、火の車に乗って帰ってくると思っていたのですが、火の車に乗ってエリヤの霊人体が来て、何をするというのですか? 地上でもって、平面でもって、完成するようになっているのです。
分かりますか?
ヤコブの家庭のレアとラケル(が残した蕩減は)は、地上において(ザカリヤの)家庭で完成するようになっているのです。
イエス様はその失敗を国家的になさなければならないのです。家庭でできなくて、氏族的にできなかったことを国家的基準において(カインアベルを)統一するために(洗礼ヨハネは)来るのだから、氏族の失敗を延長させてエリヤが再び来て、主の道を正しておくと旧約聖書で約束していたので、降臨なさる時は火の車に乗って来ると思っていたのに、人として生まれてきたということは大変なことです。
それで、イエス様の弟子たちが伝道に行くと、「君たちの先生が、もしメシヤだったら、エリヤはなぜ来なかったのか?」と言うのです。これが問題です。何も知らない、旧約聖書も知らない者たちが、イエス様に感化されて、伝道に行って「自分の先生がメシヤだ」と言った時、それを突っ込まれて、何も知らなくて、それで帰ってきて先生に質問するのです。「人々が言うのには、メシヤが来る前に、エリヤが先に来ると言うのですが、それは何のことですか?」と。それでイエス様は、はっきり言っているのです。マタイ伝の十一章にあるのです。「エリヤはもう既に来ている。それは洗礼ヨハネとして、エリヤは来ている」と。それは大変なことです。旧約聖書では、昇天した者が降臨すると思っていたのに、イエス様は、「そのエリヤが降臨するのではなく、もう既に洗礼ヨハネがエリヤとして来ている」と言ったのです。
そうなると、その当時のユダヤ教会の信者たち、旧約(時代の)信者たちは、「この悪辣なイエスのやつ、悪魔の王者よ! 自分がメシヤになるために引っ張りだして、つくりあげたのではないか! 我々はそう思わない」と言うのです。
だからといって、そのように追われたイエス様は、追われたままではいけないのです。死んでも、そのみ旨の道を発展させていかなくてはならないのです。それを消化していくために、どんどんどんどん、伝道を続けることによって、ローマの法廷闘争で、十字架上に、はりつけになって死んでいくのです。
そのことは、イエス様をローマ自体が、ユダヤ人が殺したのではないのです。エリヤが来なかったからです。
分かりましたか? (はい)。 》
(注釈)
この個所の御言葉は、ヤコブ家庭のレアとラケルの問題がカインアベルの問題(=子女たちの分裂)となって発展し、これを氏族的民族的に蕩減するために来られたのがエリヤだったが、この時もエリヤの使命が全うされずに、イエス様が降臨する時まで国家基準としてこれらの問題が持ち越されたと語られています。
そして、この持ち越された問題を解決する為に送られたのが洗礼ヨハネだったのですが、イエス様と一つになることができなかった為に、最終的には、レアとラケル問題、カインとアベル問題が成されずに、この問題が原因でイエス様が殺されたことを語られています。
何故、この問題を語らているのかと言いますと、この問題が再びイエス様が来られる時に問題となるということを語りたいからです。
それが、次に語られています。
上と下の御言葉は省略なく続いています。
【⑤-2】原理的要約を前提として語られた摂理的実態
【 イエス様の言ったとおりに、イエス様は(文鮮明師に現れて、再び)メシヤになりました。
その当時(=二千年前)、イエス様を誰もメシヤとは知らなかったのです。メシヤは神様が決めるのだから、いかに世の中(=ローマとユダヤ教)が反対しても(イエス様のメシヤとしての価値は変わりません。)(そして)、(二千年の歴史を経て)神様の公認する基準に立ったイエス様の教えの教会を中心として、歴史以来初めて宗教、文化を通して、キリスト教が世界を統一したのです。(その様な統一基準となってイエス様が再臨されるのが)第二次戦後にです。
分かりましたか? (はい)。 】
(注釈)
このヵ所は、イエス様の再臨の約束が果たされたことと、それが第二次世界大戦の終了と共に到来したことを語られています。
問題は次の原理的要約の御言葉になります。ここからがこの御言葉の核心になります。
ここからは、次回になります。