新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

統一教会はキリスト教のメシヤへの不信を再現してしまった

私たちの原理講論は再臨主を迎える為の御言葉ですが、肝心のキリスト教が不信したが為に、それを代理蕩減する統一教会の経典として登場しました。


ということは・・、


その統一教会がキリスト教と同じ様な不信に陥ったとするなら、キリスト教と同じ運命を歩むことになるということではないでしょうか。


従って、もし、そうだとすると、


原理講論の預言のように語られていた御言葉は、統一教会に対する預言でもあると言えることになります。


既にお父様は、今日の大混乱の様相を予知して、原理講論に書かれていたと言えるのではないでしょうか。


皆さん、どう思われるでしょうか・・・???


もしそうならば・・・、


原理講論に出てくる「キリスト教の不信」という言葉を「統一教会の不信」の言葉に置き換えて読むことができるということです。



それから・・・、


お父様が再臨して、終末を迎えた時は二回あります。


一回は、1945年、もう一回は、1992年です。


1992年に語られた訪韓修の御言葉は、メシヤが再び登場する終末時代の「新しい御言葉」、「新しい真理」と見ることができます。訪韓修では、お父様は何度も「末の時代」、「初めて語る」いう言葉を語られていました。


ここで注意すべきことがあります。


それは、サタン分立の40年間の蕩減時代にあったお父様と私たちの関係は、メシヤとして再び立たれた1992年以降の関係とは、全く違っていることです。

40年路程中は、お父様はメシヤとしてではなく、私たちのアベルとして私たちよりも先駆けて多くの犠牲の道を歩まれました。しかし、その後のお父様は、メシヤとして再び立たれた、神の一人子の位置になります。


お父様の立ち位置が全く違っているということです。


従って、御言葉の語られ方も立ち位置が違いますから、読み方も違ってこなければならないことになるのではないでしょうか。


お父様を失ってしまった家庭連合を念頭に、「キリスト教の不信」という言葉を「統一教会の不信」の言葉に置き換えて、もう一度、原理講論を読んでみる必要がありそうです。

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