新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

聖和とは・・・お父様は自らの死の場においても、自ら死を主管し、開拓された


真の御父母様の生涯路程 1 第五節 三


「神様は、私には愛する神様ではありません。無情な神様であり、無慈悲な神様です。同情してくれません。同情すれば、サタンが讒訴するからです。死の場においても、自ら開拓するようになっているのです。教えてくれないのです。



この御言葉のコメント


「(死を)自ら開拓する」とは・・・


 「開拓」とは、未墾の地を切り開くことですから、大往生で死を迎えることを言っているのではない。

 人間は堕落することにより死を恐れ、死の意味が分からなくなり、死を主管できなくなってしまった。

 先生にとっての聖和が何を意味していたのかが分かれば、この「(死を)自ら開拓する」が分かるはずである。


 文先生にとっての死に方で最もそぐわない死に方は、家庭連合が説明している文先生の死に方です。つまり、「文先生は精誠の限りを尽くされ、そして無理を重ねられた末に肺炎になり、お母様は最善の看病と先進の治療を施したが、体力消耗と老衰のため、お母様に見守られて逝かれた」という死に方です。

 このような死に方は文先生の心情から離れてしまった家庭連合の捉え方であって、文先生がご自身の死に向かって聖和された死に方とは真逆な説明になっています。


 もし、家庭連合が言っているような文先生の最期であるとするなら、彼らは八大教本は観音扉の奥にしまい込んで、事実上、捨てたことになる。


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