新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

本日は・・・コメント頂いたものを多少編集して記事にしました。

本日は・・・コメント頂いたものを多少編集して記事にしました。


コメント(質問)


このことは、777さんの解釈を全面的に間違っていると言っているのでは全くありません。確かにお父様が、家庭や氏族を私たちの家庭や氏族のことを指していない時もあるのは分かります。


しかし、私たちの家庭や氏族を指しているときが全くないと断言してしまうことはできないと思います。


また、わざわざ断定的な表現を使うことで、敢えて誤解を生む必要性がどこにあるのか、私には分かりません。「この場合は、お父様が、私たちの家庭や氏族のことを言っておられるのではないと解釈できる、そしてそれは、神様王権即位式以降より顕著になる」ということではどうしていけないのでしょうか?


その辺を説明していただけると感謝です。



私からの返信


質問に対する答えになるかどうか不安ですが・・・


貴殿の言わんとされていることはよく分かっているつもりです。何故なら、一つの言語を私自身もそのようにいったり来たりして読んでいたからです。


例えば、「私」「自分」という言語に対して、ある時は読み手の私として解釈し、ある時は文先生として解釈していました。また、「氏族」「故郷」のほとんどは肉親の氏族圏・故郷として解釈してきました。「あなたの家庭」「私たちの家庭」という言葉に対しても、読み手の家庭として解釈してきました。


そうやって文先生が聖和された以降、七年間は御言葉を毎日毎日七時間は向き合っていたと思います。しかし、それでは、文先生の生涯とは何であったのか、イエス路程とかモーセ路程のように再臨主の路程がスッキリみえない、分かったようで分からないモヤモヤ感がぬぐえなかったのです。御言葉の1ページに一週間、一か月間向き合っても壁があるのが分かるのです。そうすると、夢で目が覚めた時、答えが出ていたことがよく多くありました。その答えで御言葉をもう一度読んでみると、全く違った内容になっていることがたくさんありました。


3年くらい前になりますが、御言葉にある「私」「自分」「あなたの家庭」「皆さんの家庭」・・・・これらの言語が文先生であるとして読んでみることにしたのです。ある兄弟からは「それは間違っている」という注意を受けましたが、私の心は変わりませんでした。何故なら、そう読むことにより、イエス路程と、原理観と一致することが分かり、一層、文先生を近くに感じ、文先生を理解する道であることが分かるようになったからです。更には、まだ途上ですが、「これなら再臨主の路程がイエス路程、イエスの形象路程であったモーセ路程によって解けるかもしれない」と思えるようになったのです。


私のブログを受け入れられるかどうかは、文先生の神格化された偶像を捨てることが必要です。文先生の神格化がどうして生まれたのか、その根拠を知ることが必要だと思います。これは一人一人の信仰が完全に自立していなければ不可能なことです。どこかに属しているという対象意識は必要でしょうが、属しているのは文先生のみとする自立観です。どこかに属して着いて行く信仰観ではなく、自らの信仰を完全に自立させてそのうえでどこかの派に所属するならまだ少しはいいのかも知れません。


文先生の40年サタン分立路程中の御言葉は第三イスラエルとしての言語「国語」でした。1992年の真の父母宣布以降の御言葉は第三イスラエルと天一国の中間的な言語に感じます。そして、神様王権即位式以降の御言葉は完全に天一国の言語、国語になっています。そして、王権即位式以降、文先生は統一原理は文先生そのものであると言っています。統一原理の中に文先生がおられるというのです。


とするなら、40年サタン分立路程中の御言葉はサタン分立の闘いをしておられた文先生が、ご自身を「私」「自分」「私の家庭=皆さんの家庭=文先生の中心家庭」として語られたと私は見ます。また、真の父母宣布以降の御言葉は、完成期完成級を完成させる文先生としてご自身を「私」「自分」「私の家庭=皆さんの家庭=文先生の中心家庭」として語られたと私は見ます。さらに、神様王権即位式以降の御言葉は文先生の全てを蹂躙したサタンの悪意に対しても怨讐を愛しきる為に神様の愛をもってご自身を「私」「自分」「私の家庭=皆さんの家庭=文先生の中心家庭」として語られたと私は見ます。


極端に思われるかもしれませんが、御言葉の中に読み手の私という存在が一ミリでも入る隙間がないと思います。たとえ御言葉に「私たち」と文先生が語られたとしても、文先生と一体となった信徒はゼロだったからです。


もし、読み手の私が御言葉の中に入ろうとするなら、文先生の真の愛を知る為です。御言葉全てが文先生を語られたことを知って、御言葉が文先生そのものであることを知って、文先生を仲保として関わるという方法しかないと思います。それ以外は、いずれ、色あせ、文先生が分からなくなり、サタンの誘惑に負けて、信仰を失ってしまう可能性が大きいと思います。



(このコメント全体に対して補足しておきますが・・・御言葉の中には、弟子たち、お母様の責任分担が残っている場合、そのような時代には、文先生が私たちに注意を喚起する為、読み手を意味する場合も少しあります。ただし、その場合は文脈全体から理解することです。それでも、文先生が私たちの責任分担には原則として干渉されませんから、そのような御言葉は少ないと思います。


それから、文先生の天一国の言語と私たちが持っているサタンの言語は同じ発音です。同じ言葉です。しかし、意味が全く違います。天一国の言語は真の愛を中心とした神様の言語です。一方サタンの言語は自己中心とした人間愛の言語です。このような意味から、音読していることを訓読と言っているのです。)


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