新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

⑪ お父様は「六マリア」の摂理の為に聖和されたとも言えます。

前回の記事で「六マリア」を理解するにとても重要と思える御言葉を紹介しました。もう一度、抜き出します。


● 真の御父母様の生涯路程 10 第五節 五


アダムさえ出てくれば、エバは造られるようになっているのです。エバは、アダムをまねて造ったのです。

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先生がお母様を探し立て、今日、統一教会の祝福家庭の皆さんを立てて対等な権限を付与することのできる愛の基盤が築かれる時代になったのです。


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上記の御言葉をもう少し考察します。

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 お母様が全人類の女性を代表した《 天宙的洗礼ヨハネ 》の立場であり、レアの立場に立ちます。そのお母様に対して、祝福家庭全体が相対圏として立って、ラケルの立場に立ちます。


 そして、レアとラケルの摂理は切り離すことができない関係から、お母様と祝福家庭全体も切り離すことができない関係であり、この二者が対等の権限を持っているということです。

 即ち、この二者はカインアベル摂理と同じ様に、一方だけが責任を果たして一方が果たさないということはあり得ないことになります。レアとラケル摂理も嫉妬心の情念から来る怨讐を越えて双方が共同して責任を果たすのか、反対に、双方が嫉妬心に飲み込まれて共に転げ落ちていくのかという立場にあります。分派も含めたすべての家庭連合は現在この立場にあります。家庭連合であれ分派であれ、単体で責任を果たしたと宣言することはできず、カインアベル、レアとラケルが共同して統一されて勝利の宣言をしなければなりません。




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これはお父様とお母様の関係も同じことが言えます。
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「平和の主人 血統の主人」に次のような御言葉があります。
この個所はお父様が聖和されることを語り続けているところの一部を抜き出したものです。

(3)天地人の道理を知るべし(3-5)


大きいからといって王の役割は果たせません。王(お父様)がいるなら、女王(お母様)もいなければなりません。

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相対(お母様)がいなくなる時には、いくら王(お父様)でもいなくなる(聖和する)のです。天地人の道理を知らなければなりません。




(5)平和の主人 (5-3) 29項


家庭を中心として「わたし(お父様)」は「あなた(お母様」のために死んでもよく、男性は女性、女性は男性のために死ぬために存在しているのは、真の愛ゆえなのです。


(お父様の)真の愛だけが(お母様を)生かしてあげることができるのです。


 この御言葉からも分かりますように、上記のレアとラケルが対等関係であるように、メシヤであられるお父様であろうとお母様の権限と対等であることを意味しています。従って、レアとラケルが一緒になって崖から転げ落ちたように、お母様が責任を果たさなければ、相対圏としてお父様が生きて立つ位置が原理的にあり得ず、お父様はお母様の為に死んでも良い(聖和しても良い)と言っているのです。


 実際にその様になりました。お父様はお母様の為にお母様の願いに応えた立場で聖和されました。これは堕落人間には考えられない「真の愛」の姿です。


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「真の愛」を顕す誰もが知っている代表的な聖句を紹介します。
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 マタイによる福音書 第5章39節


「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。

 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。



 これは、「誰かがあなたの頬を打ちたいと思っているのなら、頬を打たせなさい。更に、別の頬も打たせなさい。」ということです。これに対して恨みを抱かないで、私が打たせたという立場に立つことが「真の愛」になります。イエス様の十字架もお父様の聖和も、ご自身から向かって行かれたこと、これが「真の愛」の姿になります。



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お父様の「真の愛」の在り方にもイエス様と同じことが展開

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 それが《  》の記事でとりあげた、驚くような①②③の御言葉です。

 私はこの御言葉を知って頭を殴られるようなショックを受けました。そしてお父様は私たちの「サタン分立路程」を指導されながら、お父様はメシヤとしての責任となる「サタンの自然屈服路程」を①②③の姿で歩んでおられました。


 「平和の主人 血統の主人」にも①②③に通じる御言葉があります。お父様は自身の家庭にサタンを迎えられて、サタンを決して裁くことなく、お母様と子女様にサタンの爪が立ったとしても、何があろうと、友人以上に「客」としてもてなしたと《 (10-4) 》で語られています。


 お父様はサタンの求める原理的讒訴条件をそのまま受け入れられて、「右の頬を打つなら、左の頬をも向ける」という、堕落人間の誰一人歩むことができない、想像を絶する「サタンの自然屈服路程」を歩まれていたことを、私は「平和の主人 血統の主人」を軸として知るようになりました。


 「サタンの自然屈服路程」は神様とお父様とサタンしか知りませんし、お父様は条件的に抽象的にしか語ることができない道だったと思います。そして、この路程の中心的な供え物となられたお方が、お母様であり、子女様であったことが「平和の主人 血統の主人」によって一層明らかになってきている背景には、お父様の聖和によって、聖霊が降臨する時代圏を迎えているからではないかと思います。


 不幸にも、お母様が「お父様には生まれながらにして原罪があって、16歳でイエス様に出会ってみ旨を継承することを決意されたときに原罪がなくなった。」とか、「お父様は第一夫人とは結婚してはならなかった」とか、「自分(お母様)は生まれながらにして原罪がない独生女」であると語ったとしても、だからこそ私たちはお父様とお母様の相対圏に立って、お母様を責め過ぎることのないように、八大教本を胸に抱いて、信徒の責任分担として、お父様のメシヤ性と「真の愛」の姿を明確にして、これを公開して証さなければならないと思います。

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