⑨-1 「御言葉を解く鍵」 §5「私・自分」 御言葉にある「私」「自分」「私の家庭」「あなたの家庭」 とは?
まず初めに、下記の御言葉をお読みください。
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(※1)神様が・・・文先生を堕落させた
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御言葉の中の「アダム」とは文先生です。にもかかわらず、私たちは六千年前のアダムとして御言葉を読んできたと思います。その理由は、アダムを文先生として読むと、これまで聞いたことがない意味になってしまう為です。それは、再臨主であるはずの文先生が堕落したアダムになってしまうからです。
しかし、アダムとは文先生であることを、その理由も、これまでの記事(タグ=文師の堕落)でたくさん書いてきました。それを読まれた方はほぼ納得頂けるものと確信しています。今の記事の段階で、文先生の本質が最も理解できる内容になっています。これを読まれれば、『(※1)アダムとエバ(文先生とお母様)を堕落させた』の意味も理解できるはずです。
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(※2)今までの人類歴史の中で、そのようなことを考えた人は一人もいません。
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これは、文先生が16歳の時、事実蕩減の必要性から、神様によって堕落させられたという問題のことです。この問題を解くことが文先生(18歳-24歳)の最初の七年路程であったのです。
それで・・・
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(※3)再創造の主人は、神様ではなく、「私(文先生)」だというのです。
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「読み手の私」を中心として御言葉を読んではならない
ここでは、「私」とは文先生であることが分かるはずです。分かりやすい御言葉を取りあげました。これに倣って、他の御言葉でも、「私」、「自分」という言語を文先生として読まれることをお勧めします。
何故なら、文先生が「私」「自分」という言葉を用いて語られている御言葉の全体を読めば、その内容に相応しいお方は「読み手の私」ではなく、文先生しかおられないことを知ってほしいからです。
たしかに、「読み手の私自身」を意味しているように読むこともでる御言葉もあります。しかし、その御言葉に完全に合致する「読み手の私」にはなれていないことも分かるはずです。「読み手の私」として読んだ場合、現実からかけ離れた観念的な信仰に陥りやすいのです。実際にそうなっていると思います。
この『(※3)再創造の主人は、神様ではなく、「私」だというのです。』という『私』も「文先生」であるとは容易に理解できます。もし、これを読み手の私として理解するなら、メシヤの必要さえもなくなります。
重要なのでもう一度・・・
どの御言葉にもある「私」「自分」とは、文先生であるとして読まれることをお勧めします。たしかに、読み手の私の場合もありますが、それはごくわずかです。その場合は、文脈全体から分かります。あくまでも、御言葉の「私」「自分」とは、ほとんどが文先生であることとして理解すれば、文先生の路程が真の愛に沿っていることが「読み手の心」に迫ってくるはずです。ぜひ、あなた自身で体験してみてください。
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(※4)私たちの家庭(文先生とお母様の中心家庭)です。
(※5)天下が引っ掛かっているのです。
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御言葉の中にある「私たちの家庭」とは、「読み手の私」の家庭とするのは第二義です。分かりますか。第二義は、次の第一義があって成り立つものです。
あくまでも、私たちは、文先生を父として、韓お母様を母とした一つの家庭です。家庭がいくつも集まって一つの氏族です。それが統一教会の中心思想です。
だから、この思想があって「お父様」「お母様」と呼んでいるのです。「私たちの家庭」とは文先生の家庭です。これが第一義です。分かりますね。
御言葉の中にある「私の家庭」「あなたの家庭」とは文先生とお母様を中心とした家庭である。そしてその家庭に私がいるのです。ただ、問題は、私自身が文先生とお母様の家庭に一緒に住んでいないことです。ですから、中心家庭に何が起こっているのか、ほとんど実感がないことが問題です。それを補うのが御言葉です。分かりますか。御言葉の中に文先生とお母様の家庭を探し求めるのです。先ず何よりも、文先生の家庭と私自身がどう関わればいいのかを御言葉から探し出さなければならないのです。とても大変なことです。
しかし、文先生は「私」「自分」という言葉になって文先生の堕落問題までも語られています。それが『(※5)天下が引っ掛かっているのです。』と語れれていることです。ですから、「私」「自分」」「私たちの家庭」「あなたの家庭」を文先生として読み、決してその位置を離れずに読まれることです。そして、文先生はあなたが真の愛に至る道として御言葉を語られていることを知ってください。
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(※6)24、25歳の若い青年として、このようなすべてのことを知り、決定的な結論の上で統一教会という看板をつけて歩んできたという事実です。
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文先生は真のアダムの資格を16歳の時失った。その時の詩が「栄光の王冠」だったと思います。そして、その資格を再び復帰する為にあったのが18歳から24歳までの、最初で最後のたった一度の七年路程だったのです。これは他の七年路程は全く別次元のものです。
この七年路程は神様が反対し、イエス様も反対し、全霊界が反対したのです。それに打ち勝った七年路程であり、文先生の生涯を決定する七年路程であったのです。その結果が、統一原理であり、統一教会であったというのです。
御言葉
2003年 「平和国連創設・韓国本部大会 奉献祈祷文」 2003.10.15
昔、先生が語ったことも、今、語っていることも同じです。世界のみ旨のために、生きることができるか、できないかということによって、天国実現の主役になれるか、なれないかが決まるのです。それが原則です。それゆえに、その原則に従って生きなければなりません。
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そのような道理を立てて神様を解放し、神様が完成することのできなかった創造を完成させなければならない責任は、神様にあるのではありません。
神様にあるのであれば、(※1)アダムとエバ(文先生とお母様)を堕落させなかったのです。アダム(文先生)にあるということは、胸の詰まる事実です。(※2)今までの人類歴史の中で、そのようなことを考えた人は一人もいません。
(※3)再創造の主人は、神様ではなく、「私(文先生)」だというのです。それゆえに、天一国主人とは誰だというのですか。(※4)私たちの家庭(文先生とお母様の中心家庭)です。
一つの家庭を中心として、このように(※5)天下が引っ掛かっているのです。釣りのえさと同じです。そのえさを逃してしまったので、再びしっかりつくって釣り針に掛け、その位置に帰るために、天上世界、地上世界において、神様が苦労できないことまでも苦労して、また苦労して、越えていくことができる道があるというのは理論的にも妥当な結論です。
(※6)24、25歳の若い青年として、このようなすべてのことを知り、決定的な結論の上で統一教会という看板をつけて歩んできたという事実です。今聞いても、一つも間違っているところがありません。その位置から皆さんは新しく出発しなければなりません。アメリカであれ何であれ、今あるものは認めません。分かりますか。(はい)。