新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

また、一つの真実が明らかになった・・・これが文先生の真実の姿なのか?(鳥肌が立つ)

下記の1960年の御言葉は、文先生の偉大さを改めて知った御言葉です。


何も知らなかった私たち・・・・


文先生は韓母を天使長的人物に差し出した。これがアブラハムによるイエスの典型路程です。

この典型路程の為に韓母には原理を学ばせなかった。そして、韓母は種を受けた。

韓母が天使長的人物と関係した為、40年サタン分立路程中にあった文先生はそのまま独身生活の修道者になった。

これが七年路程であった。

韓母から生れた子女様には怨讐たちの種の子がいる。

これによって「平和の主人 血統の主人(10-4)」が成就していた。


もっともっと、文先生の内実を知りたければ、こちらを完読してください。


(私はこれまで、お母様がアブラハムによるイエスの典型路程によって堕落し、その韓母と夫婦関係を持ったことが文先生の堕落と考えてきました。しかし、この御言葉から、そうではなく、たとえ、韓母と夫婦関係を持たなかったお父様であったとしても、堕落した家庭を持ったというエバに対する責任から、文先生はご自身が堕落したとされたことを知り、よりスッキリしました。)



怨讐に対するお父様の恨み   怨讐に仇を返すには  

   一九六〇年七月一七日(日)前本部教会


 修道の道は、独身生活をするのです。女は女で独身生活をし、男は男で独身生活をするのです。このようにして、まずもって充たすべきものが何か? 心です。心を充たし、天情と因縁を結んだ後に、世の中を見渡さなければなりません。この曲折の動機を解くまでは、神の怨讐に仇を打つことはできません。怨讐は永遠に残ってしまうのです。よくよく知らなければなりません。


これは嘘話ではありません。事実です、事実。


それでイエスは母親であるマリアに’婦人よ、あなたとわたしは何の関係がありますか?’と言ったのです。この世的な血肉の因縁をもって、対することができないのです。当然です。当然の話ですよ。


天を愛さなければならないイスラエル民族、天のみ旨を受けるべきユダヤ教徒は自分の息子・娘よりも、神をより愛したという認定を受けなければなりせん。


 サタンの世で持っていた残り物を、神が受け取られるでしょうか? 受け取られないのです。怨讐の手の触れた物を受け取られるでしょうか?


 皆さんは知らねばなりません。この体には毒素があるのです。悪の目的を果たそうとするサタンの血肉が、染み込んでいることを知らねばなりません。この目、この体、この耳このすべてがサタンの行楽と、サタンの理念を立ててゆく通路なのです。それで仏教ではこの世の中を遠ざけ、山中に入るのです。しかしそのようにしては駄目なのです。悪と闘って勝利しなければならないのに、闘いもしないのです。キリスト教は世の中にあって、悪と闘って勝とうとします。それゆえこの世的なものと闘い、勝ったとする群れが出てこなければなりません。


 怨讐の中の最大の怨讐が、どんな怨讐でしょう? 事業上の怨讐ではありません。最も大きな怨讐は、愛する夫や妻を奪う人間です。これ以上に大きな怨讐はありません。皆さんも知っているでしょうが、本来こんな曲折が起こったのです。こんな先祖からの血肉を受け継いだ我々は、体に対する愛着心を全部捨てなければなりません。飢えてみなければなりません。修道の道は飢える道です。この体が疲労して倒れるまで、労働の場で一途にやってみるのです。むやみと打つのです。


 こんな場に出る人間は、父母が来て’やあ、某よ’といっても堂々と越えてゆかなければなりません。愛する妻が過去の因縁を押し立ててきても、断然つらぬいて行くのです。世の中のどんな欲望や、周囲の因縁が襲いかかってきても、貫いて行かなければなりません。であれば神が’おお 、おまえはわが愛する息子だ’とされて再び送られるのです。おまえたちの息子・娘を救い、父母を救い、妻を捜してゆくように再び送られるのです。このようにならなければなりません。


 イエス様はこのような使命を果たすために地上に来られ、弟子を立てようとされたのですが、そんな弟子を持てなかったのです。今日まで数千年の間、信じるという信仰者たちは世界的に数え切れないほど多いのですが、このような信者はいなかったのです。


 今日統一理念をもってゆく私たちは、何をしなければならないか? 心情的な因縁を回復しなければなりません。目的はこれです。よく食べ楽に生きることは問題ではありません。乞食のじいさんの服を着ても、顔がくしゃくしゃになっても、どのようになったとしても神が’おお わが息子よ、わが息子よ’とされるとき’アボジ!’と駆け寄って慟哭することができなければなりません。こんな心情が皆さんにあるでしょうか?

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