文先生の「愛の十字路」 ➡ 文師は堕落を見せざるを得なかった ➡➡ 『堕落したのだから、堕落から始めないといけない』
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https://twitter.com/dEMl1sCYpYXDs4z/status/1741192205501673809
御言葉〔A〕〔B〕〔C〕
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1993年日本信徒たちに 文師がご自身の堕落を初めて語られた
(韓国の古い先輩たちは初めて聞く御言葉だった)
➡ 〔A〕「堕落したのだから、堕落から始めないといけない」
➡ 〔B〕「非法的でなければ戻っていく道がない」
➡ 〔C〕「(神様は)非法的な愛という条件ゆえに手をつけることができない」
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問題は・・・・何故、「堕落から始めないといけない」と語られたのかです。
この文師の堕落問題を真の愛の観点と原理の観点から解かなければならない。これを知らずして、文師を「私の父」と呼べないはずです。
➡➡ この問題を整理したのが前々回の記事でした。
御言葉〔A〕
「真の父母と重生」 16万人女性訪韓修 1993.12.20
「真の父母が必要ですか、必要ではないですか? (必要です)。なぜ必要ですか、なぜですか? (真の愛ゆえです)。
いいえ。
堕落したのだから、堕落から始めないといけないのです。
堕落して偽りの血統を受け継いだのだから、真の愛とは関係ない立場に立っているので、真の愛を再び接ぎ木して、接触させて、再び自分たちが甘柿になるために、真の父母が絶対必要です。」
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御言葉〔B〕
「家庭における女性の使命」男性訪韓修練会1995.1.11-19)
「そういう因縁の家庭的背後を見てみるとき、姉妹でもって紛争すべきでしょうか? エリサベツは、妹のマリヤを旦那さんに抱擁してやるように案内してあげたのです。
こんなことはあり得ないのです。
なぜ、こんな非法的なことをやらざるを得ないかというと、元に帰っていくには、非法的な堕落の血統的愛の基盤の上にあるので、正法の伝統的な道では戻っていくことができないのです。
非法的でなければ戻っていく道がないのです。
そもそも、非法の出発をしたのですから、その非法の起点に行って、そこから正法の道に戻っていかなければならないので、非法の要素を見せざるを得ないというのです。
ですから、「罪多きところでは恵みも多い」という聖書の言葉も逆でありながら真なのです。」
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御言葉〔C〕
天聖経 真の神様 第四章 三 2.
「神様はあらゆる面において自由自在にできるお方であるのに、(神様は)非法的な愛という条件ゆえに手をつけることができないという恨めしく悲しい神様の心、気が遠くなるほど嫌気がさすのを誰が知るでしょうか。」