新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

Picard さんへ・・・『自分』『自身』『私』 ➡「天聖経」1ページあたり ➡ 3.4ヶ所 (文先生で埋め尽くされた天聖経)

Picard さんへ・・・とても重要なことですので、追加的に記事を作成しました。


下記の【御言葉〔A〕】は新しい天地の標準となった「天聖経」からの引用です。



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『自分』『自身』『私』
   ➡ 「天聖経」1ページあたり ➡ 3.4ヶ所
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2652ページからなる「天聖経」には、『自分』という言葉が3408ヶ所、『自身』が362ヶ所、『私』が3909ヶ所、『私たち』が1372ヶ所、合計9,051ヶ所、1ページあたり3.4ヶ所にもなります。
読み手の都合で一人称とも二人称ともなり得るこの言葉をどう解釈するか。重要な問題のはずです。これは、「天聖経」が正しく理解できるかどうかがかかっている問題です。つまり、文先生を中心とするか、文先生から少しずつ距離を置いて少しずつ自分を中心とするか、その正否が分かれる言葉です。


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下記の【御言葉〔A〕】の『自分』も・・・文先生になります
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この『自分』という言葉を【goo辞書】で引くと次のように書かれています。


【goo辞書】


『自分』


1 反射代名詞。

  その人自身。おのれ。「―を省みる」「―の出る幕はない」「君は―でそう言った」


2 一人称の人代名詞。

  われ。わたくし。「―がうかがいます」


[補説]江戸時代、「御自分」の形で二人称の人代名詞としても用いられた。現代では「自分、昼飯すませたか」のように、大阪方言の会話で、自分と同等の者に対する親しみを表す二人称として用いられることがある。



神格化の都合で間違った解釈をしてきた
 「天聖経」から『自分』『自身』『私』という言葉を探すことは難しいことではありません。1ページあたり3.4ヶ所も出てきます。これまで、全家庭連合は統一教会創設以来、文先生(の生涯)に対して完全なアダム(常に再臨主)であったとして神格化してきました。特に日本統一教会の神格化は教条的でした。その為、梅干を見たら唾が出るように、御言葉にある『自分』『自身』『私』という言葉を読めば、そのほとんどは、《「1の反射代名詞」》の読み手の私自身として解釈してきたのです。


 しかし、下記の【御言葉〔A〕】から分かるように、ここでの『私』は文先生です。さらに、『自分』という言葉は《「2 一人称の人代名詞」》として語られている文先生であると私は判断しています。皆さんはいかがでしょうか。


 なお、もう一度申し上げますが、前回前々回前前々回の記事で取りあげた「『自分』『自身』『私』という言葉の全ては文先生である」という内容は、今のところ訂正することはありません。(もちろん、文脈から明らかな場合はその限りではありません。)


間違って理解すれば ➡ 原理観が曖昧化する
確かに、御言葉の中にはこの『自分』を読み手の私自身と理解しても問題ないものもあります。しかし、他までも読み手の私自身と解釈してしまうと私たちが堕落人間であるという自覚が弱くなってしまい、さらに、命の源泉であったはずの原理が光を失って曖昧化してしまう問題があります。その結果、柔らかな個人主義という自分中心に陥る危険性をはらみ、サタンの誘惑に落ちりうことになりかねないのです。


文先生と一体となって理解する
その為、私は、あえて『自分』『自身』『私』という言葉を単一性の定義から捉えて、「これ等の全ては文先生である」として読んでいます。(ただし、文脈からしてこれらの言葉が読み手の私自身である場合、文先生でもあるという前提で私自身であるとして読んでいます。ですから、これ等の言葉を文先生から離れて理解すれば、必ず原理観が曖昧化し、読み手の基準によって解釈が揺れることは避けられなくなります。
いま、多くの食口たちは人間的な判断でこの過ちに陥り、サタンの誘惑下に落ちていると思います。



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『私』『自分』 ➡ 絶対に読み手の私自身ではない
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【御言葉〔A〕】


『私』『自分』 = 文先生


天聖経 


⑤地上生活と霊界 第一章 第一節 九 2. 


ここで、生涯とは、永遠の生涯を言います。地上界だけを言うのではありません。それは生きている永遠の暮らしです。


「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的であり、主体的な神様の対象が、正に自分です。


神様の愛の相対がというものです。神様が自分より、もっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。


神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が自分です。



『自分』『自身』『私』に対するこれまでの記事

 再び再臨を預言していた 【1976年の御言葉】 ➡➡ 聖和してから・・・後輩に再び再臨して再蕩減が必要となる


 コメントありがとうございます・・・【Picard】さんへの返信


【御言葉の『私』とは・・・一体誰か??】 ➡ 言語の定義は単一性 ➡ 御言葉に解釈の”揺れ“があってはならない 


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