新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

⑤-3 「御言葉を解く鍵」 §1「私」 文先生を表す『言語』27個 ➡ 赤・天聖経の決定的な御言葉 ➡ 『「統一原理」は私の中にあり、私は「統一原理」の中にいます。』

     


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文先生を表していると思われる『言語』 

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「先生」「彼」「自分」「自ら」「私」「私たち(の「私」)」「人間」「男性」「修行者・修道者」「宗教者」「父母」「真の父母」「偽りの父母」「男やもめ」「アダム」「第三アダム」「一次アダム」「二次アダム」「三次アダム」「ノア」「アブラハム」「ヤコブ」「モーセ」「イエス」「天使長」「ヨセフ」「人類始祖」「私の父母(家庭)」「皆さんの父母(家庭)」「皆さんの父母(家庭)」「私たちの父母(家庭)」

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大切な漏れがありましたので「第三アダム」「一次アダム」「二次アダム」「三次アダム」】を追加しました。

他にもあるかもしれません。現段階で私が知り得ている文先生を表わしている『言語』です。ただし、その「言語」が文先生の場合もあれば、その言語のままの場合もあります。どちらであるかは「六つの条件」に従うこととします。それ以外は、文脈から判然としますから、何度か読み返せば決して難しいことではありません。



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前回の記事のポイント (緑文字)

★ 文先生を表している『言語』がこれだけの数になる理由何か?

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  その理由 1 ➡ 御言葉〔A〕(1975年)

   (※2)「あなた方は何も知りません。第一先生は語らなかったのですから。」

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これを知って次の決定的な御言葉〔B〕をお読みください。




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 本日の記事はここからです・・・・・


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★ 文先生を表している『言語』がこれだけの数になる理由

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  その理由 2 ➡ 決定的な御言葉〔B〕(文先生が80歳を超えられた以降の御言葉) 



御言葉〔B〕 (2000年以降) 赤・天聖経 第五篇 第一章 第四節 


10 (※4)「統一原理」は、私の生涯の記録でもあります。それは、私自身の生活経験です。この「統一原理」は私の中にあり、私は「統一原理」の中にいます。


多くの 人々は、私がただ真理の発表者であり、その伝達者にすぎないと言いますが、私は真理のとおりに生きており、それを具現しました。


(※5)したがって、人々が私と私の行動を理解する唯一の方法は、「統一原理」に通じることのみです。「統一原理」を知って研究することによってのみ、私を理解することができます。原理を研究すればするほど、私をさらによく理解できるというのです。


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(※4)『「統一原理」は、私の生涯の記録でもあります。それは、私自身の生活経験です。この「統一原理」は私の中にあり、私は「統一原理」の中にいます。』

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  ➡➡ 文先生の御言葉・・・聖書の人物である「アダム」「ノア」「アブラハム」「ヤコブ」「モーセ」「イエス」・・・・等々の名は、そのままその人物を蕩減していた時の文先生であったということを暗示しているのです。


決して、過去の聖書人物のお話をしていただけではなかったのです。私たちはこれまでこのような御言葉を知らなかった為、文脈の整合性が取れなくても、御言葉の中の人物をそのまま文字どおりの人物として理解してきたことは否めません。その為、全てがあからさまになる再臨時代であるにもかかわらず、多くの御言葉があまりにも意味不明に陥っているのはこの為であったのです。


仮に、御言葉に語られていた聖書の人物が文字どおりの時代の人物であったとするなら、文先生は過去を語ることに多くの時間を割くだけで、過去の蕩減をどう現在に蕩減するのかについて不明瞭になっているのです。


しかし、コリント第一の手紙13章に「(再臨の時には)顔と顔とを合わせて、見るであろう。・・・その時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」と記されているように、再臨時代は「統一原理」によって全てが明らかになる時代であるはずです。ですから、(※4)で『「統一原理」は、私の生涯の記録でもあります。それは、私自身の生活経験です。この「統一原理」は私の中にあり、私は「統一原理」の中にいます。』と語られたのと判断しています。

なお、聖書の人物一人一人については後日取り上げ、この記事が正当である根拠としての記事にします。


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「統一原理」は文先生が歩まなければならなかった『信仰基台』の「条件物」であった

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既に80歳を超えられて語られたこの御言葉〔B〕は新しい天地の標準となる御言葉です。ここから分かることは、「統一原理(1966年発刊)」は文先生の『信仰基台』の「条件物」であったということです。


★ その『信仰基台』とは・・・・


第一に、文先生が洗礼ヨハネの失敗を肩代わりして「中心人物」となられた。

第二に、文先生が40年サタン分立路程(1952-1992)となった「数理的な蕩減期間」を歩まれた。

第三に、「統一原理」が文先生の「条件物」となった。〔原理講論 緒論(一)(2)①〕


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第五の条件を完全に満たされた文先生  

   『原理講論の「後編」 緒論 (三)』の『私』という条件を完全に満す

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御言葉〔B〕から分かることは、「統一原理」は文先生の生涯を予め私たちに教えるためにあった預言書でもあったということです。


ですから、統一原理の後編に登場する、アダム家庭から始まってイエス路程まで登場した摂理的人物たちの責任分担が全うされなかったのですから、彼らの路程すべてを、取り残すことなく、文先生がお一人で蕩減復帰しなければならなかったということです。


このような理由から、「アダム」「ノア」「アブラハム」「ヤコブ」「モーセ」「イエス」・・・等々、彼らがそのまま文先生に再臨復活したことを意味し、文先生はそのまま彼らの名をもって御言葉を語られたということです。


ですから、(※4)で『「統一原理」は、私の生涯の記録でもあります。それは、私自身の生活経験です。この「統一原理」は私の中にあり、私は「統一原理」の中にいます。』と語られ、さらに、(※5)で『人々が私と私の行動を理解する唯一の方法は、「統一原理」に通じることのみです。・・原理を研究すればするほど、私をさらによく理解できるというのです。』と語られたのです。 


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