⑦-2 「御言葉を解く鍵」 §3「アダム」 この『アダム』って誰のことか? 「聞いたこともないアダムの堕落??? 」「やむを得なかったアダムの堕落???」
下記の御言葉 「メシヤと我々」 をお読みください。
(※1)・・・聞いたこともない堕落???
この御言葉の聞き手は、1972年4月23日、日本の食口です。みんな、統一原理(の堕落論)を学んで献身した者たちばかりです。ですから、「聞いたこともない堕落」とは絶対に六千年前のアダムの堕落ではないのです。
極めつけは次です。
(※2)・・・やむを得なかった堕落???
六千年前のアダムの堕落が「やむを得なかった堕落」だったのですか?これもあり得ないのです。ここで文先生は、「神様が容認する新たな堕落」のことを言っているのです。
このような御言葉は「犬も歩けば棒に当たる」のように、ほとんどの御言葉に存在している。1950年代から始まり、聖和間近になるとより鮮明に語られている。私が知っている御言葉を一つ一つ、1日に一つ記事をあげても3カ月以上かかる。
御言葉
「メシヤと我々」 1972年4月23日 日本 東京教会
堕落したアダム・エバ、あるいは我々の先祖が堕落したことは見たこともないし、(※1)聞いたこともない。
しかし堕落した結果の世界に生まれている。だから我々人類の生きている現世というもの、この世の中というものは堕落圏内に包囲されている。
これが問題である。この堕落圏内から脱皮しなければいけない。乗り越えていかなければいけない。乗り越えていくには、個人としていかに乗り越えていくかという問題である。個人を乗り越えた以上は家庭を中心として、いかにしても、これをまた乗り越えていかなければならない。家庭に限ったことではない。あるいは氏族、民族、国家、世界まで、天宙の最高の基準を乗り越えるまで、ここには堕落圏がすべてを占領している。これをいかに正すかという問題が、我々堕落した人間として果たさなければならない、解決しなければならない重大な問題なのです。
これを果たすには、今、現世の世界のすべてを導入しても、それは可能な問題ではありません。国の力でもできなければ、世界の力でもできない。それ自体が堕落圏内に包囲されているし、拘束されている以上はそれ自体を中心としては解放とか、あるいはこれを抜け出るということはできないのです。
メシヤの必要性
だからここにおいて我々人類として願うのは、これから第三者の力を頼りとしなければならない。そこにおいて宗教の必要性が生じてくるのです。
愛の絶対なる神様があったならば、このすべての環境を正してもらいたい。それが今まで、我々歴史を通しての人類の要求であった。こういう面の要求とともに、もしも神がいたとするならば、人間をそういうような立場におきたいのが神のもともとの理想じゃない。これは(※2)やむを得ない結果になってこういうふうになってしまったんだから、神様自体もこれを本来の基準まで引き上げておかなければ、絶対なる神としての権威を立てることはできません。