新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

1960「堕落の報応」 ➡ 同じ意味の御言葉 1995「堕落したのだから 堕落から始めなければならない」(文師の堕落は 神様に帰る為の堕落だった)


あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします



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1960年と1995年に語られた同じ意味を持つ御言葉
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下記の御言葉 1960「堕落の報応」 
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1995「堕落したのだから 堕落から始めなければならない」と同じ意味をもつ
  ➡➡ この二つの御言葉は 事実蕩減の原則によるものです
  ➡➡ 事実蕩減とは・・・  
     事実蕩減 = 同じことを再現する・・・毒は毒をもって制す(サタンの毒を解毒する)


注: 下記の御言葉にある「自分」とは文先生ご自身になります。私たちはこれまで「自分」という言葉を読み手の私と理解してきました。
どうしてそうなってきたのでしょうか。
理由は簡単です。「自分」を文先生自身として読むと文先生が堕落したお方になってしまうからです。しかし、文先生が聖和されて以降、御言葉をよくよく精査すれば、文先生が堕落した立場に立たれていたことが何カ所にも語られています。もちろ、六千年前の神様の戒めを破ったアダムの堕落と文先生の神様に帰る為の堕落とは定義性が全く違うことを知っておかなければなりません。


御言葉


「怨讐に対するお父様の恨み」

     一九六〇年七月一七日(日)前本部教会


 自分が善なる人間であると満宇宙の前に、自認することができないことを感じれば感じるほど、自身の環境が悪なる環境であると恨むようになるのです。さらには自分がこんな悪の世の中で生きているので、このような環境に染まって悪なる立場に立つようになったと、一時的な弁明をして生きているのが現実なのです。


 それではどうしてこのようになったのか? 自身が善なる人間になっておらず、善と反対の悪なる人間になったのは、環境のためであると恨嘆する原因はどこにあるのか?


(※1)この原因を追究してみれば、堕落の報応 からきた事実であることを否定できないのです。


(※2)善とか悪という名詞が残っていることも、堕落のゆえであるのです。

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