新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

第三アダム 苦難の出発 ➡ 文先生16歳の時に 新原罪が生まれ ➡  詩『栄光の王冠』 が生まれた

ーーーーーーーーーー

下記の御言葉は ➡ 『世界平和を愛する世界人として 文鮮明自叙伝』です
ーーーーーーーーーー
昨日の記事の御言葉は文先生が(数え)16歳の時に新しい原罪が生まれたことが分かる内容でした。これと同じような御言葉の数は一つや二つではありません。私が確認しているだけでも六十を数えています。(一つや二つならブログはお休み継続しています)



『自叙伝』には16歳の時の堕落に関して ➡ 直接語られていない
『自叙伝』には文先生の最も苦しかったこの時の堕落の心境が吐露されています。それが(※1)の「艱難」の言葉です。(※2)~(※10)も参考にしてください。


「堕落させた」(事実蕩減の為、虎穴に入らずんば虎子を得ず、毒は毒をもって制す)
御言葉によると、何も知らなかった文先生が(数え)16歳の時、天意によって霊界が一丸となり、堕落させられたことが分かります。御言葉には「堕落させた」という言葉が数え切れないほど語られています。
「栄光の王冠」
下記の『自叙伝』に「栄光の王冠」が載っています。この詩は文先生が1935年に書かれたものです。この詩の内容からして、文先生の16歳の時の堕落と深い関係があったでことは容易に知ることができます。
この詩を文先生は2002年、米国で開催された国際詩人協会会議に出品されました。そして、最優秀作品に選ばれました。どうしてこの詩を2002年に出品されたのか。これについて御言葉では、80歳を過ぎられた文先生が「16歳の堕落前の立場に戻った」と語られています。(明日、これに関する新たな御言葉を記事にします)


ーーーーーーーーーー
このような記事に対して・・
  あまりにも私の心情の不足、器の不足、御言葉の不足があり、皆さまに十分な内容をお届けできないことに大きな負債があります。
ーーーーーーーーーー
16歳という、まだ未熟だった文先生に突然襲いかかった苦しみが如何なるものであったのか。その一部でも垣間見ることができるのではないか、そう思って「X」と「ブログ」で取り組んでいます。
匿名で構いませんので、コメント頂ければ、大いに参考になります。よろしくお願いいたします

世界平和を愛する世界人として 文鮮明自叙伝 

  第二章 涙で満たした心の川―神の召命と(※1)艱難


(抜粋)



『 イースター


十五歳になった年の復活節(イースター)を迎える週でした。その日も、いつもと同じように近くの猫頭山に登って、夜を徹して祈りながら、神様に涙ですがりつきました。
・・・・・
その日、私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、その声をはっきりと聞きました。イエス様が現れた時、私の体はヤマナラシの木が震えるように激しく震えました。その場で今すぐ死んでしまうのではないかと思われるほどの恐れ、そして胸が張り裂けるような感激が一度に襲いました。イエス様は、私がやるべきことをはっきりとお話しになりました。苦しんでいる人類を救い、神様を喜ぶようにしてさしあげなさい、という驚くべきみ言でした。


・・・・・


  胸が痛ければ痛いほどひたむきに愛せ


(※2)私は非常に激しく混乱しました。両親にも打ち明けられず、かといって、心の中にぎゅっとしまい込んでおくわけにもいかない大きな秘密を抱えてしまったのです。どうしていいか分からず、途方に暮れました。明らかなことは、私が天から特別な任務を託されたという事実です。しかし、一人でやり遂げるにはあまりにも大きな責任でした。しかもその内容たるや驚くべきものがありました。到底自分には果たし得ないと思って、不安と恐怖におののく毎日でした。混乱した心を何とかしようと、以前にもまして祈りにすがりつきましたが、それすら役に立ちません。いくら努力しようとも、イエス様に会った記憶から少しも逃れられなかったのです。泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、私はその恐れを詩に書きました。


 「栄光の王冠」

(2002年、米国で開催された国際詩人協会会議で、この詩が最優秀作品に選ばれる。)


人を疑えば、苦しみを覚え
人を裁けば、耐えがたくなり
人を憎めば、もはや私に存在価値はない
しかし、信じてはだまされ
今宵、手のひらに頭を埋めて、苦痛と悲しみに震える私
間違っていたのか。

(※3)そうだ、私は間違っていた

だまされても、信じなければ
裏切られても、赦さなければ
私を憎む者までも、ひたむきに愛そう

涙をふいて、微笑んで迎えるのだ
だますことしか知らない者を
裏切っても、悔悟を知らない者を
おお主よ!愛の痛みよ
私のこの苦痛に目を留めてください
疼くこの胸に主のみ手を当ててください
されど(※4)裏切った者らを愛したとき

私は勝利を勝ち取った
もし、あなたも私のように愛するなら
あなたに栄光の王冠を授けよう

-------------


(※5)ある時は、果てしない暗闇が私を取り囲み、息つく暇さえないほどの苦痛が押し寄せたし、またある時は、昇る朝日を迎えるような喜びが心の中に満ちあふれました。そういう毎日が繰り返されて、私は次第に深い祈りの世界に入っていきました。

・・・・

(※6)私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。神が願う道を行くために、一つしかない命を喜んで捧げました。逃げようとしても逃げ場がなくて、私が行く道はただその道以外にありませんでした。


・・・・・

私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。(※7)いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです。私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。この年になっても、私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。

・・・・・

私の祈りと至誠が天に届く日には、イエス様は必ず現れ、特別なみ言を伝えてくださいました。切実に知りたいと願えば、イエス様はいつでも穏和な顔で真理の答えを下さいました。

(※8)イエス様のみ言は鋭い矢のように、一直線に私の心深くに突き刺さりました。それは単なるみ言ではなく、新しい世界を開く啓示のみ言、宇宙創造の真実を明かすみ言でした。イエス様は風が傍らを通り過ぎるようにお話しになりましたが、(※9)私はそのみ言を胸に抱いて、木の根っこを抜く思いで切実な祈りを捧げ、宇宙の根本と世の中の原理を少しずつ悟っていきました。


(※10)その年の夏休み、私は祖国巡礼の旅に出ました。一文無しでもらい食いをして、運が良ければトラックに乗せてもらいながら、全国津々浦々を巡ってみました。祖国はどこに行っても涙の坩堝(るつぼ)でした。飢えた民衆の苦痛に満ちた息遣いが絶えることはなく、彼らの凄絶な悔恨の涙が川のように流れました。』

×

非ログインユーザーとして返信する