【答えは原理講論】文先生は、どうして、原理違反までして非原理のサタンを愛したのか?
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お母様の堕落は、文先生が原理違反までして非原理のサタンを愛したためだった!
➡ 「文先生がお母様を堕落させた」
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参考記事
【御言葉】 堕落した人間は堕落条件を立てる資格がない ➡ あるのはメシヤの文先生のみ
文先生は、どうして、原理違反までして非原理のサタンを愛したのか?
➡ 【答えは下記の原理講論】
原理講論
第二章 堕落論
第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め
(一)愛の力と原理の力から見た堕落
人間は原理をもって創造され、原理軌道によって生存するように創造された。それゆえに、原理の力それ自体が、人間を原理軌道より脱線させ、堕落せしめることはあり得ないのである。これはあたかも、レールや機関車に故障がない限り、汽車が自ら軌道を脱線するということがあり得ないのと同様である。しかし、汽車も自らの走る力よりも強い、ある外力が、それと異なる方向から働いてきた場合には、脱線するほかはない。
これと同じように、人間も、それ自身を成長させる原理の力よりも強い、ある力がそれと異なる目的をもってぶつかってくれば、堕落する以外にはないのである。
(※1)この原理の力よりも強い力が、すなわち、愛の力なのである。それゆえに、未完成期における人間は、その非原理的な愛の力のために堕落する可能性があったのである。
(※1)の注釈 ーーーーーーーーーーーーーーー
【超重要①】(「(※1)この原理の力よりも強い力が、すなわち、愛の力なのである。」について・・・
六千年前、ルーシェルに誘惑されたエバとアダムは長成期の完成級の未完成だった時、ルーシェルの邪悪な愛によって堕落しました。★ ➡ ということは、この「(※1)」からすると、復帰は、一段階上の完成期の愛がこの地上に現れた時、いづれ、サタンは文先生とお母様によって悪の座を失うことになるので自動的に消えていく運命になります。)
【超重要②】(ところが、文先生とお母様は堕落した長成期完成級から1968年に完成期完成級に上がられたにもかかわらず、40年サタン分立路程を勝利されて1992年になると、その完成期でもお母様をサタンに差し出してしまわれたのです。
★ ➡ サタンからすれば、今まで味わったことのない完成期の強い刺激で、お母様の生殖器が暴走して天使長的人物をも巻き込んだのだと思われます。
この天使長的人物は文先生から息子以上の息子として愛された人物ですから、お母様との関係は霊的な近親相姦の関係になるのです。
この近親相姦の問題は原理では解けません。直接主管圏の完成した真の愛のみが解く力を持っているのです。ですから、1993年に『再び再臨主が来て「フリーセックスと近親相姦」を解決しなければならない』と語られ、再臨に関する御言葉全てが未来形で語られているのです。)
【重要③】(そこで問題となるのは、再臨主として送られた文先生が一段階上の完成期の愛をあらわす為に、どのような路程を行かれたのかという問題です。
実は、神様は文先生にその路程を教え諭す為に、神様ご自身が先がけてその路程を行かれたと語られたのです。この神様の路程こそ、神様がご自身の妻になるべきエバに展開されたことだったのです。★ ➡ このエバとは、文先生が16歳の時の許嫁であり、第一夫人であり、第二夫人であり、第三のお母様です。サタンが望むようにエバを天使長的人物に抱かせて強奪させたのです。
【重要④】何の為に神様はご自身の妻をサタンに差し出されたのか?
★ ➡ 神様がサタンを真の愛で愛するためです。神様は真の愛しか知らない、サタンの愛は持っていないお方です。神様は真の愛によって創られたルーシェルの罪を見ても、認知しない、真の親であるため、認知できない立場に立たれたのです。
【重要⑤】このような神様の先がけた路程を手本として文先生が歩まれたのが「アブラハムによるイエスの典型路程」だったのです。)
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(※2)それでは、神はなぜこのように原理の力よりも愛の力を強くして、未完成期における人間が、目的の違った愛の力にぶつかるとき、それによって堕落することもあり得るように創造されたのであろうか。
創造原理によれば、神の愛とは三対象の愛によって、三対象目的を完成した、四位基台の主体的な愛をいう。したがって、神の愛がなければ、人間創造の目的である四位基台が成就されないために、愛は人間の幸福と命の源泉なのである。神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、(※3)その愛が愛らしく存在するためには、愛の力は、あくまでも、原理の力以上に強いものでなければならない。
もし、愛の力が原理の力よりも弱いものであるとすれば、神は原理で創造された人間を、愛をもって主管できず、したがって、人間は神の愛よりも原理をより一層追求するようになるであろう。(※4)イエスが弟子たちを真理によって立たしめ、愛をもって救おうとされた理由は、正にここにあったのである。