新「平和の主人 血統の主人」

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、(文先生が聖和しても)やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

【文先生とお母様 堕落の証明】(※1)と(※2)の違いは何か? ➡ 文先生曰く「(※1)私も神様に似てみたい」  イエス様曰く「(※2)私を見た者は神様を見たのである」

777(ほふられた仔羊)

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文先生曰く・・・・「(※1)私も神様に似てみたい

イエス様曰く・・・「(※2)私を見た者は神様を見たのである

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 あなたは、(※1)(※2)違いをどう結論づけますか?


 私の結論は、文先生が「堕落原理」によって堕落した立場に立たれたため、文先生は「私は神様に似ている、私は神様と同じである、(※2)私を見た者は神様を見たのである」と語ることができなかったと理解します。 ➡ だから、「(※2)その様に(文先生も)生まれる日を神様も待ち焦がれるはずであり、人間も待ち焦がれるはずです。」と語られたのです。違いますか?


【「堕落原理」に関する参考記事】

① 「堕落原理」とは ➡ 文先生とお母様が「(※1)サタン世界で原理的な立場に立つこと」 ➡ サタンの誘惑に勝利する ➡ ” 虎穴に入らずんば虎子を得ず ”

② 復帰には「堕落原理」が必要 -- but -- 「堕落原理」≠「統一原理の堕落論」



御言葉(1982年 62歳)

   天聖経 人間の生と霊魂の世界 第一章 二 


 (※1)(文先生)も神様に似てみたいし、神様も私(文先生)が神様の息子、娘であるならば似る様にしてみたいという観念をもつ事は必然的なのです。


ですから、私は神様に似てみたいし、神様は私を連れていきたいという事を可能にする道を模索するはずです。それで、人は再び神様と似る事が出来る体をつけて生まれるべきだという結論が出てくるのです。(※2)その様に(文先生も)生まれる日を神様も待ち焦がれるはずであり、人間も待ち焦がれるはずです。(116-172, 1982.1.1)


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ヨハネによる福音書 14章8-10節


8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。

9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。(※2)わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。


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【補足】

 文先生は「堕落原理」によって堕落した立場に立たれたお方です。そして、文先生は六千年の縦的歴史を横的に蕩減復帰する路程を歩まれていたため、旧約時代、新約時代をも蕩減する路程だったのです。そのため、文先生はご自身を縦的歴史の人物たちに重ねて語られていたのです。

 ですから、文先生の路程は六千年の縦的歴史と同時性となっているため、「「統一原理」は、文先生の生涯の記録 である」と語られたのです。


 ややもすると、文先生が御言葉に語られている聖書の人物名が単にその時代の人物を上書きで語られているように思いがちです。しかし、これは過ちです。実際はそんな平面的な御言葉ではなく、文先生がその人物の立場を蕩減復帰している立場を重ねて語られ、二重的で立体的な御言葉になっているのです。

 これを知って御言葉を読めば、御言葉選集から、私たちが直接文先生と生活を共にしなかったとしても、中心家庭の艱難の実態が蕩減原理に従って理路整然と見えてくるのです。しかし、誰もが、これを知らないで読んでいたため、御言葉が原理講論を否定している、或いは、矛盾しているようにしか見えなかったのです。そのため、事実として、多くのリーダー達がリタイヤし、いまもって、ユダヤ教とキリスト教が信仰混乱に陥ったように、統一教会もまた御言葉と信仰の混乱を自ら招いているのです。


 このようなことが最も顕著に表れている人物名が「アダム」「人類始祖」という言語です。これらは文先生ご自身をあらわしているのであり、「エバ」は複雑ですが、「エバ」とは文先生が16歳の時の許嫁であり、第一夫人、第二夫人、第三のお母様をあらわしているのです。

 他には、「イエス様」もそうです。さらに、「ノア」「アブラハム」「ヤコブ」「タマル」「マリア」等々はみな、成約時代圏の人物のことを重ねれ語られていたのです。

 もう一つ重要な言語があります。それは「堕落」という言語です。原理講論の「堕落」と成約時代圏の「堕落原理」の蕩減法によって文先生の身に起こった「堕落」の定義性(動機とその様相)がまったく違っています。

 ですから、文先生がアダム、人類始祖の名をもって語られている御言葉の全てが原理講論の内容と比べると、外観として、「①全く同じである」「②微妙に違っている」「③大きく違っている」「④全く新しい概念である」というようになっています。40年路程中は①②が多く、以降は②③が多く、2000年以降は④が多くなっています。


あくまでも、文先生が語られていた御言葉は成約時代圏の言語で語られたものであり、原理講論はイエス様までを解いた新約時代の言語で解かれたものです。御言葉と原理講論の言語基準(国語)が違っているのです。

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